人生音痴

新婚生活。迷子になるから、手を引いていてね。

子どもを持たないという選択肢

ワンピースを着ていると、「もしかして、おめでた?」と訊かれる。
もともと太っているっていうのもあるかもしれないが、独身の頃はそんなこと聞かれなかったから、きっと新婚だからなのだろう。

 

以前にも書いたが、結婚する前は早く子どもが欲しいと思っていた。
20代のうちに初産は済ませたいし、できれば2人か3人欲しい、と。

 

もともと子どもが大好きで、保育を学び、資格も持っている。赤ん坊も幼児も、小学生も中学生も高校生も可愛い。だから、結婚したらすぐにでも赤ちゃんが欲しかった。

 

しかし、いざ結婚していつ子どもが出来てもいいという今になって、迷っている。

 

思ったより夫婦2人での結婚生活が楽しいのだ。

 

実生活でもツイッターでも、「子どもが出来ると夫が鬱陶しくなる」と聞く。
「旦那がいい男だなんだとは、子どもの夜泣きが始まってから言え」なんてツイートが流れて来る。

 

なんだ、それなら今のままの方が楽しいじゃないか。

 

将来寂しくなるから、というのは子どもが欲しい理由にはならない。
子どもがもし海外で生活したい、と言ったら引き止める気はないし、ましてや老後を世話してもらうために子どもを産むなんて考えはおぞましすぎる。


少子化を懸念する国のために、税金を納める人口を増やすためだけに、子どもを産むつもりもない。そもそもそれに見合うだけの制度もないんだから、こちらの意思で自由にやらせてもらいたい。

 

自由になるお金も時間も子どもがいるのといないのでは桁違いに変わってくる。
生まれてきたからには、衣食住に不便させたくない。たまには遊びに連れて行ってあげたい。私立高校に通いたいならそうさせたいし、大学に行きたいと言うなら行かせてあげたい。結婚するときにいくらかの援助はしたい。

それだけのお金があれば、夫と2人で毎年年末年始に海外旅行できるじゃないか。

 

子どもを育てるメリットとデメリット、という形で比べてしまっている。

 

もちろん子どもを可愛いと思う気持ちは変わらずにあるし、特別な理由もなく、きっと本能の部分で子どもを産み育ててみたいという気持ちも変わらない。


ただ、ここで子どもを持たないという選択肢が急浮上してきてしまったのだ。

 

リスクがなるべく低いうちに妊娠するには、もう時間がない。妊娠出産は期限付きなのだ。

 

でも、切羽詰まって悩んでいるわけでもない。出来ないなら出来ないでいい、と思っているから妊活がつらくないのかもしれない。

 

2人での生活は楽しいし、きっと3人での生活も楽しい。そう思って、ゆっくりと考えて行きたい。

機嫌よく「おかえり」って言うこと

Twitterは捗ってるけど、久しぶりの更新になってしまいました。

 

7月から夫の勤務先が遠くなり、出勤が40分ほど早まった。それに合わせてわたしも早く起き、お弁当を作って送り出している。夏バテも重なってだろうか、最近頻繁に頭痛がしたり、仕事が終わるとクタクタになる日が多い。


そんな中で、気分よく過ごせる方法を見つけた。それは、夫が帰宅した時に大きめの声で「おかえり」と言うこと。

これは世紀の大発見かもしれない。
だって、わたしがご機嫌に「おかえり」って言うだけで、なんだか家の居心地がとっても良くなるのだ。


子どもの頃から、感情の不安定さが漏れ出してしまうタイプだった。玄関を開けた時に「ただいま」と言うかどうかで機嫌の良し悪しを見抜かれていたと母に聞いたことがある。

だから、疲れているとどうしても、リビングに入ってきた夫の顔をちらりとみてぼそっと「あ、おかえり。」と言うだけになってしまっていた。夫は「うん」と返すだけ。
そしてそのあと、無意識にどっちのほうが疲れているか対決になってしまう。「こんなに疲れてるんだから労ってよ」の押し付け合い。疲れてるアピールでますます疲れるループ。

 

そのループを抜け出す呪文が、「おかえり」だった。

疲れていても、少し元気を出して「おかえり」と声をかける。なるべく、玄関が開いた瞬間に。
そうすると、夫から、少し大きめの声で「ただいま」と返ってくる。
それだけのことで、「お疲れ様」「今日も大変だった」「忙しかった?」と会話が続く、仲良し術の大発見であった。


気持ちは伝染する。毎朝毎晩2人で過ごす夫婦なら尚更。どちらかが疲れていると、もう片方も疲れたくなってしまう。きっとそれが無駄なイライラを生んでしまう。

結局はお互いを尊重する、ってことなんだろうけど、そんな難しい言葉は分からない。
きっと、尊重するってこんな些細なことの積み重ねなんだと思う。

 

今日も疲れた。今日は朝から旅行の荷解きをしたり、たくさんの洗濯物を干したり、職場では慣れない仕事もした。

それでも、わたしは今日も機嫌よく「おかえり」と言う。そして2人でご飯を食べて、一緒に片付けて、お風呂にも一緒に入って、一緒に眠るのだ。

 

当たり前のことなのかもしれない。
だけど、この幸せな毎日を続けるためにはきっと、この当たり前が重大なミッションだったりするんだろう。
こうやっていくつも発見を重ねていきながら、何十年もご機嫌に過ごして、ずっと夫と一緒に年を重ねられたら、と願う。

結婚して生きやすくなった話

結婚すると価値観の違いでケンカすると思っていた。


わたしの母は割と几帳面で、わたしの行動1つ1つを「大雑把ね」「詰めが甘いんだから」「全く、あんたらしい」と評価していた。

 

畳んだ洗濯物の角が合わないとき、物干し竿に均等に並んでいないとき、切り分けた野菜の大きさがバラバラだったとき、掃除機をかけた後にゴミが落ちていたとき、年賀ハガキの住所が曲がっていたとき、夏休みの宿題のポスターの色ぬり。

 

母親という存在は大きいもので、母が言うこと全てが「普通」の水準なのだと、それすらできないわたしは面倒くさがりで大雑把な人間なんだと思っていた。このままじゃだめなんだ、丁寧にやらなければ、と。

 

ひとり暮らししているときも、いつだって母の声が聞こえてくるような気がしていた。

 

それがわたしの行動の基礎にはなっていて、丁寧なやり方をきちんとできるというのは母のおかげだし、出来なくて恥をかくこともなく感謝しなければいけないな、とは思う。

 

でも、ただ、苦しかった。
母の言いつけ通りにできないことが、母の言葉に縛られていることが。何かにつけて、「全くあんたは大雑把なんだから」という声が聞こえてくることが。


自分が丁寧にしたくてすることと、怒られるからしなきゃ、と思いながらすることには大きな差があった。離れて暮らして怒られるわけじゃなくても、怒られる気がしていた。

 

 

夫は、わたしよりもずっと面倒くさがりやで大雑把な人間だった。
ゴミも捨てず、服は脱ぎっぱなし、片付けもしない。

 

最初は夫の後をついて回って端から片付けていたが、だんだん「この部屋はいくら散らかっていても見て見ないふりをする」「自分が片付けたいものだけ片付ける」と諦めが出てきた。

 

少し、大雑把に寛容になれたのだと思う。

 

ある時、封筒をハサミを使わずに指で開けながら、夫に「実家にいたとき、こうやって開けてたら『全くあんたは大雑把なんだから!』って怒られたんだよね」と話したら、「好きに開ければいいのにね。どうせ封筒なんて捨てるんだし!」と返された。

 

驚いた。

 

結婚して価値観の違いで苦労する覚悟はしていたけど、価値観の違いでこんなに救われる覚悟はしていなかったから。

 

社会は思ったより寛容かもしれないと気付いた。


普通だと思っていたことが、普通ではなかった。


「当たり前のことが出来ない」窮屈さを、「当たり前なんて一人一人違う」という気付きで打破できた。

 

やらなきゃいけないことが減って、やってあげようかな、と思うことが増えた。

 

やらなきゃいけないことが減って、自分がやりたいからやろう、と思うことが増えた。

 

 

夫のひと言が、毎日の生活が、がちがちの価値観を解いてくれている。

結婚して、いまわたしは、とても生きやすい世界に生きている。

新婚さんは考える。喧嘩するほど仲がいい、は本当か?

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「喧嘩するほど仲がいい」は、本当だろうか。そもそも、喧嘩するほど仲がいいというのは、「喧嘩する(できる)程度に仲がいい」のか「喧嘩すればするほど仲がよくなる」のかどっちなんだろう。


友達や恋人関係なら、喧嘩できる程度にお互いをよく知っていて、簡単に離れることもできるのに離れることを選ばずに、わざわざ喧嘩をする、というのは「喧嘩するほど仲がいい」のかもしれない。喧嘩すればするほど、相手のいい面も嫌な面もたくさん知るというのもあるのだろう。わたしはわざわざ喧嘩をふっかけてくるような人とは距離を置きたいと思ってしまうけど。


さて、夫婦はどうだろう。

わたしはもともと喧嘩は避けたい人間だ。
友達でも恋人でも親でも、なるべく平穏に付き合うのがベストだと思っている。
もともとそんな価値観であるから、偏った考えではあるかもしれないが、やはり「夫婦は喧嘩するべきではない」と思っている。


喧嘩は消耗する。体力も気力も。
夫婦は日々の生活を何事もなく健康に送っていくための同志で運命共同体だ。
敵は仕事にあり、敵は社会にある。子どもがいれば、育児も家事も共に立ち向かうべき敵だ。
外で戦い、家で戦う夫婦は一心同体で、そこの間で争って消耗するのは得策ではない。
喧嘩で見えてくる相手の本性もあるだろう。しかし、そこまでして見る必要がないものも多い。相手のことを知るのは喜びであるはずなのに、わざわざ大ダメージを負う方法をとる必要もない。


では、喧嘩をせずに仲良しでいるにはどうしたらいいのか。

大抵、30年連れ添ってなお仲の良い夫婦などにより語られる「仲良し夫婦の秘訣」というものがある。
当方は結婚し一緒に暮らし始めて8ヶ月程度の新入社員で、全くおこがましいことではあるが、却って今しか見えないこともあるのではと、毎日を仲良く過ごす方法も少し書き起こしておこうと思う。新婚さんには「あるある」、ベテランさんには「まだまだひよっこね」と思いながら読んでいただけたら。


結婚は我慢だ忍耐だと言われる。
しかし、我々新人夫婦はまだその域まで達していない。子どももいないし、それぞれ好き勝手生きている。我慢も忍耐もない。ストレスフリー。

ただ、日常にささやかな違和感はある。
綺麗にかけたはずのバスタオルがぐちゃっとなっていたりとか、自分は洗濯物を畳んでいるのに夫は寝転んでスマホで遊んでいるとか。

以前はそんなことにいちいち小言を言っていた。言って直してもらうことが必要だと思っていた。しかしある日、「なんでお前は良くて俺はダメなんだよ…」とぽつりと言われたことがあった。

 

はっとした。
夫はもしかして、なにも言わないだけで、わたしが普通だと思ってやっていることが目についているのではないか。
おそらく結婚2ヶ月目くらいの頃の出来事だが、その気づきは大きく、いまでも脳裏に焼き付いている。

 

それからわたしは、言わなくてもいい小言は言わないと決めた。バスタオルはどうせ翌朝洗うし、気になるなら自分で直せば10秒で終わる。わたしが家事を頑張っている分、夫は仕事を頑張っている。
わざわざ言わなくなったら、わざわざ気にすることも随分減った。
言っているときは余計目について端から言いたくなる。それは自分にとっても相手にとっても窮屈だと気付いた。


しかし、もちろん我慢できないこともある。仲良く暮らすために、我慢できないことはなんでも言う。ただし「もやもやした不安」や「よく分からないけど不満」で怒ることはしない。「〇〇が嫌だから、夫にはこれこれこうして欲しい」と話せるようになるまで自分の中で一生懸命考える。


2人の関係上不具合が出てくれば2人で改善すべきだが、自分の精神状態には自分で責任を持つべきだ。
自立した大人同士で結婚したはずなのだから。

 

仕事や家事に疲れたり、生理前で情緒不安定になるときもある。余裕がなくて、笑えないときもある。そういうときもできれば「疲れてイライラしてるんだ」と伝える努力をする。あなたのせいじゃないの、ごめんね、と。

 

小さいイライラが積み重なって夫を許せなく思うときもある。なにから言ったらいいのか自分でも整理がつかないのに、一緒にいなければいけない瞬間がある。その時には「アイス買って!」「ドライヤーして!」とワガママを言い、それで水に流したことにする。モヤモヤしたまま寝ても、起きたら大抵のことは忘れているし、2、3日経てば上手に伝えられるようになっている。

 

コントロールできる感情は、誤魔化したり宥めすかしたりしながらうまくコントロールしたい。負の感情は、浸れば浸るほど雪だるまみたいに増幅するものだから。


昨日の夕食の後、わたしは食器も洗わずにリビングで寝てしまった。夫は怒ることなく黙々と片付けをしてくれて、ようやく起きたわたしに優しく「まだ全部終わってないや」と声をかけてくれた。逆に、夫が疲れていればわたしが片付け、「お風呂入ろう」と声をかけるだろう。
嫌だ、いい加減にして、と怒ることより、相手を気遣うことのほうが難しい。自分の気持ちに余裕がないと尚更だ。だって自分が損する役回りにならないといけないから。


他人と家族になって8ヶ月。これから先、家族として快適に生きていくヒントを少しずつ探す中で、「夫婦喧嘩は得策ではない」というのが今の所ひとつの大きな手がかりだ。相手を責めて解決しようとするのではなくて、自分の感じ方や行動を変えて解決する方法を身につけることは、「一生仲良し夫婦」に一歩近づく手段であると感じている。

バーベキューなんて嫌いな話。

土曜日、仕事の関係で40人程度参加者がいるバーベキューに参加してきた。今年はバーベキューにツキがあるのか、これで4回目のバーベキュー参加である。

なぜちょっと暖かくなると、人は野外で肉を焼きたがるのか。

 

バーベキューは好きじゃない。

 

大人になるまで、バーベキューは自宅の庭で家族とするもので、母が支度し、焼肉奉行の父が肉を焼き、わたしや弟は気持ちのいい空の下で肉を口に運ぶだけのただただ楽しい娯楽であった。飽きたら家の中に入り昼寝をした。バーベキューの日は朝からワクワクしていた。

 


しかし、大人になり友達や職場の人とバーベキューをしたときに愕然とした。あまりの面倒くささと、そこから享受できる喜びの少なさに。

 


だらだらと大人数で買い物をし、安定しない狭いテーブルで身を寄せ合って野菜を切り、炭を起こすのに苦労し、風で吹き飛ぶ紙皿を押さえ、ぬるくなったビールをプラスチックのコップで飲む。苦労して切った野菜は肉とともに雑然と焼かれ野菜炒めになっている。曇れば寒いし、晴れれば暑すぎる。誰も鉄板の上に責任を持たないから、焦げた肉がくすぶる。ゴミをまとめ、油まみれになった網や鉄板を洗い、帰りに余った塩胡椒か油か焼肉のたれを持たされる。

 

思い出すだけで億劫だ。


バーベキューは、今時めずらしく「男の役割」「女の役割」を求められる遊びではないだろうか。
「女の子は野菜を切っておいて、俺たち火を起こすから。」
「〇〇ちゃん、すごい、手つきが慣れてる」
「〇〇くん頼りになるね」
「ねえちょっと、酒が足りないから買い出しに行こうよ、付き合って」

若くて楽しくて面倒くさい男女のやりとり。

 

料理が嫌いなわけでも包丁が使えないわけでもない。ただそこで気が遣えて料理もできるオンナを演じるのが面倒だ。

 

ああ、焼肉屋ですでに用意された野菜や肉を焼いて食べたい。ちゃんと冷えたグラスで冷たい生ビールが飲みたい。油でべたべたになった網やテーブルを放置してお金だけ払って帰りたい。

 

帰路につくときには、決して心地よいわけではない疲労感でいっぱいになっている。

 


たまたまこの週末に重なって、日曜日の夜には義両親と夫と一緒に焼肉に行ってきた。
七輪を囲んで4人で肉を焼き、冷たい烏龍茶を飲み、美味しいねと話し、満腹で帰宅する、平和な世界であった。

もうわたしには男女のキャッキャした遊びは必要ない。
冷房の効いた部屋で落ち着いて座ってみんなで肉を食べようじゃないか。
そこに刺激はなくても、穏やかな幸せは必ずある。

結婚初心者、結婚は幸せだと語る。

わたしたちは昨年11月に入籍し、その日から一緒に暮らし始めた結婚初心者だ。子どももまだいない。結婚と同時に義実家で同居という必要もなく、ふたりぼっちで暮らしている。夫のことが大好きで、これまで生きてきた中で一番幸せな生活を送っているところだ。まさに「今が一番いいとき」。ピークという意味ではなく、あくまでこれまでの人生の中では一番。今後下っていくのかまだまだ上り調子なのかは、わたしには分からない。

 


夫への愛情は、子どもができれば落ち着くと聞く。しかし子どもがいないいま、わたしの愛情の全ては夫に向いているのだろう。正直何をやっていても可愛いし、ムカついてもご機嫌とりされればすぐご機嫌になってしまう。これがいつか「ただのオジさん」になってしまうと思うと惜しい。いや、すでにただのオジさんなのだけど。今、わたしが夫を見るときには、50センチ以上の厚さを誇る夫大好きフィルターがかかっている。

 


結婚すると、「幸せ?」と聞かれ、「いいなぁ、新婚さんだもんね」と言われる。「今だけだよ」とも。それから「うちなんてさ」と続き、愚痴になっていくのが定番で、わたしはほとんど自分のことを語らずに会話は終了する。

 

 

本当は、「幸せだよ」と叫びたいのだ。

 

 

独身時代、結婚できるかという不安と一緒についてまわったのは、「こんなに頑張って結婚したところで幸せになれるのか」という恐怖であった。

 

周りは配偶者の愚痴ばかり言う。
きっと本当に嫌いなわけではないだろうとは思うが、「嫌になっちゃう!」と話す。そんな話ばかり聞いていたから、わたしはよく結婚したばかりの友達に「ねえ、結婚は幸せ?幸せだよね?」と縋るように聞いていた。

 


おそらくみんな、自分が幸せだとか楽しいとか嬉しいとか、そういう話はしにくいのだ。自慢だマウンティングだと言われることに怯えてしまう。不幸話や愚痴話なら、怯えることなく共感を得られるから。

 


でも、幸せだったはずなのに、謙遜が癖になって肥大化して、愚痴しか出なくなっているとしたら…と考えると、恐ろしい。

 


わたしはいま、幸せだ。
大きな声で他人に言うことは憚られるが、幸せかと聞かれれば幸せだと応える練習をしている。


毎日朝起きたら隣に夫がいて、一緒にコーヒーを飲んで、行ってらっしゃいとキスをして見送る。あ、キスは5回くらいする。あとぎゅっと抱きしめる。鬱陶しがられるまでする。それから、仕事に行って帰宅し、夫の帰りを待つ。夫から帰るよとラインが来る。車の音が聞こえ、階段を上る音、そしてドアが開く音が聞こえる。「おかえり」「ただいま」と交わす。一緒にご飯を食べる。たくさんたくさんお喋りをしているうちに、睡魔に負けて夫の膝枕で眠る。日付がかわる頃、一緒にベッドに行き、一緒に朝まで眠る。

夫の実家に行けば笑顔で迎えられる。自分の両親も「夫くんはどうしてる?」と気にしてくれる。生理が遅れても焦ることはないし、子どもが出来たら喜べばいい。もうわたしたちは、法律的にも、社会的にも、世界中に認められたカップルなのだから。きっと祝福されるだろう。


こんなに幸せなことを、謙遜なんかで汚してはいけない。

 


同じく新婚の友達に、思い切って「ねえ、結婚って幸せだよね?」と聞いてみたことがある。その子は笑顔になって、「幸せ!」と応えてくれた。


愚痴だって言うし、配偶者にムカつくことだってたくさんある。でも、わたしは幸せだって思えている限り、ずっと、「それでも結婚って幸せだよ」なんて言い続けたいと思っている。

 


「新婚だもん、今だけよ!」って笑いたい人は笑えばいい。そして自分の現状を嘆き続ければいい。
「新婚だから幸せ」で上等じゃないか。これより先、幸せじゃなくなるか、維持できるか、より幸せになるかなんて、わたしには分からない。


お金持ちで幸せな人、いい家族に恵まれて幸せな人、美味しいものが食べられて幸せな人、友達がいっぱいいて幸せな人、趣味に没頭できて幸せな人、彼氏に愛されて幸せな人、新婚さんで幸せな人、長年連れ添ってずっと幸せな夫婦。世の中の幸せな人に、できればもっと幸せだと叫んで欲しい。それがこの先、生きる希望になる気がするから。

 

いまはたくさんの幸せを謳歌しよう。できれば周りの幸せな人たちと一緒に。

人生音痴

この間の記事がきっかけで、フォロワーさん以外にも記事を読んでいただいているようで。
はてなブログの仕組みが分かっていないので、ご無礼等あったらすみません。

 


わたしがいまメインで楽しんでいるインターネットサービスは、Twitterと、特に他人との交流を必要としないスマホゲーム、それにウェブ検索くらいのもので、中でもTwitterは毎日電池消費量トップに君臨している。

 

Twitterが好きだ。何気ない一言へのレスポンスが多いし、早い。考え方が近い人と出会うことができるし、その人たちが毎日なにを考えているのか、どんな日々を送っているのかを、ひとつの画面を追うだけで知ることができる。
ブログは、あくまでもTwitterの補完のつもりでいる。140字、もしくは連投しても邪魔にならなそうな3ツイート程度より長くなりそうな文章を別のコンテンツに残していこうと思っている。

 


このブログを作るとき、ブログのタイトルという項目が必須になっていて、「そうか、ブログにはタイトルが必要なのか!」と新鮮な驚きがあった。

 

Twitterはタイトルを持たない。
自己紹介の欄にタイトルめいた言葉を入れるアカウントもあるが、「タイトルを入力せよ」と求められることはない。

インスタグラムやフェイスブックも、タイトルは必要としない。ゲームも、ウェブ検索も、毎日の会話や生活や夕飯の献立だって。


なにかをまとめて、ひとつの言葉、そしてできれば目を引くキャッチーな言葉に落とし込むという作業が久しぶりで、まずそこでブログ開設を挫折しそうなくらい悩んでしまった。


散々唸って出て来た言葉が「人生音痴」

結局、何千何万もの人が使ったことがあるであろう手垢にまみれた言葉をタイトルにしてしまった。


前回の記事に少し書いたが、わたしは割と順風満帆な人生を送っているように見える。
健康に生まれ、大きな病気も怪我もせず、順調に学歴を重ね、就職、結婚。

そんな項目だけ書き連ねれば、波風立てず、平々凡々と生きてこられた、と感じるのだが、振り返ってみると生き方がすごく下手くそだな、と反省することが多い。

そう、方向音痴なのだ。人生において。

 

わたしはいつだって方向音痴で、家の近くだろうと行きたい場所への地図が頭に描けず、いつまでも道は覚えられず、スーパーでレジを済ませてふと目をあげると出口がどこだか分からない。もちろん地図は回さなきゃ読めないし、回したところで自分がどこに立っていてどこに向かうのか見つけるまでに時間がかかりすぎる。

 

人生もそんな感じなのだ。
行く先がぼやけて見える、踏み出した足は反対方向、ひとつ達成したところで戻ればいいのか進めばいいのか検討もつかず立ちすくむ。周りに人が歩いていれば同じ方向に進むことはできるが、好きに進めと言われるとなにが正解なのか悩んで動けない。


実家にいればいいのに、思い立って実家から車で10分のところにひとり暮らしして貯金を空っぽにしてみたり、新車を買って頑張ってローンを払わなきゃいけないときに休職したり、せっかく正社員で福利厚生も手厚く、女性でも一生働ける職場に就職できたのにさっさとやめてしまったり。

 


ただ、このブログにそんな下手くそな半生を書こうと思ってこのタイトルをつけたわけでない。わたしのTwitterアカウントやこのブログのメインコンテンツは、大好きな夫とのことだ。

 


夫は道を覚えるのが早くて、地図だって読めるし、くよくよ悩まない。
夫はいつだって、地図を読めないわたしの手を引いてくれる。運転してどこにだって連れて行ってくれるし、わたしが運転していれば的確に道案内もしてくれる。

 

それは、まるでカーナビに頼るのと同じように。
最適な道かなんて分からないけど、必ず目的地まで連れて行ってくれるという信頼。

 


そう、これは、人生音痴なわたしと、いつだって手を引いてくれるはずの夫とのおはなし。